校名
「啓」はひらく、教える、導くなどの意であり「成」はなる、なす、完成するなどの意である。知能を啓発し、全人的人間を完成させることを意味している。この校名は、本校設置に伴い元北海道知事、町村金五氏命名のものである。「啓」「成」の2字がそのまま使われている例は少ないが「啓」については論語述而編第七に用いられ「説明してひらいてやること」「わかるようにしてやること」の意である。
校章
校訓
校歌
陽はのぼる 石狩の野に
校歌は、作詞の神保光太郎氏が「じかに啓成の姿を見、一緒に話し合い、学校の様子を知ってから作詞する」との意向から、昨年9月来札され、本校生徒の代表や教職員と話し合いを行なっていかれた。その際、本校からの要望とあわせ、啓成の若さ、力強さ、未来への希望などを象徴し、また石狩平野の風土も組み入れたものを作詞なされる事を約束されていかれた。
以来、その完成が待ち望まれていたが、昨年11月に詞が出来あがり、それに作曲家の清水脩氏が曲をつけられ、去る1月30日、放送を通じ校歌完成の披露が行なわれた。校内に流れる音楽クラブの合唱した録音に合わせ、各教室から明るい歌声が校内に響きわたり、校歌の完成を祝った。
(昭和43年7月10日発行「啓成高校新聞」第3号より)
初代校長・武田俊介先生へのインタビューから
校歌の作詞は神保光太郎さん、当時の京大文学部の教授で、作曲は日本大学芸術学部教授の清水脩さん。二人共とても有名な人たちでね、上京してお願いしたんだ。校歌に「宇宙の夜明け」ってあるよね。“宇宙”って使ったのはうちが最初で、自慢したな。
(昭和63年12月21日発行「札幌啓成高新聞」第64号より抜粋)
創立30周年を前に神保光太郎さんの書簡を発見
10月5日の創立30周年を前に資料整理中の加藤先生が雑多なダンボールの底から一通の書簡を発見した。30年前、本校校歌作詞者、神保光太郎先生の苦悩する姿がそこにあり、加藤先生は感激で興奮している。
校歌制定委員会が発足したのは、開校のあわただしさも一段落した42年2月であった。「作詞、作曲とも全国的視野に立って一流の専門家に委嘱する。道内出身者で該当者があればなおよい」というのが基本方針であり、これに沿って調査をしたり、市内の各高校の校歌作成の資料等を得て慎重に検討を重ねた。その結果道内には適当な候補者が見当たらないという結論がでて、その規模は「全国的視野に立って」と広がった。
先ず作詞者から検討したが容易に候補をしぼることができず難航した。結局作曲者が先に決定した。清水脩氏である。氏は1912年生まれで東京音楽学校(現芸大)作曲科を卒業。昭和42年当時は全日本合唱連盟理事長でわが国合唱界オペラ界の重鎮として、それらの作曲に活躍されていた。国際的にも有名な作品を書いている(オペラ修禅寺物語・東京オリンピック合唱曲等)。まさにわが国一流の作曲家であり、その活躍は現在もなお続いている。作詞者については、作曲の清水氏から、ふさわしい人物を紹介してもらおうということで委員会の意見が一致し、その5月に武田校長が上京し、清水氏に会い、作曲依頼と同時に作詞者の紹介についても依頼したところ快諾を得、かくして校歌制定へのスタートが切られたのである。
清水氏によって紹介された作詞者は神保光太郎氏。当時は京都大学文学部の名誉教授であり、わが国の現代詩人としても文学全集等に名をつらねているという。これまた一流の人物である。氏は快く作詞を承諾され、作詞上、現地を見ることの必要から42年9月の末に本校の仮校舎(旧札幌一中校舎)を訪れた。その足ですぐに現校舎建築中の現場を訪れ、基礎コンクリートを打って間もない屋上から石狩平野を一望された。仮校舎に戻られてから教員・生徒の代表と会い、作詞上の要望を熱心に聴取され「いいのができそうです。期待してて下さい」と健康な笑いを発しながら話をされた。
11月末頃に詞が送られてきた。「貴先生(武田校長先生のこと)はじめ諸先生、生徒諸君のお気持ちと御希望とをできるだけいれたつもりです」との書簡とともに。これが「陽はのぼる石狩の野に春待つこころひとみはもえて・・・」の現校歌の詞である。作曲は清水氏によって速いペースで行われ、2ヶ月後の43年1月末に完成された楽譜が到着した。
早速、合唱部の生徒によってテープに録音され、校内放送によって全校に明るく力強い現校歌のメロディが響き渡ったのである。昭和43年2月1日その日を校歌制定とした。
(平成8年7月25日発行「札幌啓成高新聞」第65号より)