札幌啓成高等学校同窓会 雪笹会

恩師は今・・・

菅村敬次郎 先生

まだ暑い夏の頃、敬次郎先生宅へ伺いました。平岡の札幌大学近くの閑静な住宅街にお住いはありました。玄関先には奥様のお手入れされている可愛い薔薇が、庭には奥様のご両親が丹精されている沢山の鉢植えが揃って陽を浴び、その横には胡瓜や茄子が大きく育ち食べ頃となっていました。
先生は御年70歳代になっているにもかかわらず、お元気そのもの。退職されても、やはり先生は先生でした。ずっと演劇にかかわっての教師生活で数々の賞を受賞され、退職された今もなお演劇に携わって過ごされています。
演劇に対する情熱がずっと続いていらっしゃるのではないでしょうか。 平成18年に立ち上げた『小さな演劇塾』では、出張演劇部のような活動をされていて60人でも、少なくは2人からでも依頼があれば、行って演劇の面白さを指導されているそうです。
また「ちえりあ」での『百人一首と江戸川柳の会』では、川柳を通して百人一首を先生ご自身も楽しみながら教えていらっしゃるようです。まだ20首目位なので、お教室はまだまだ続くそうです。是非参加して、一生徒になって勉強してみたいと思ってしまいました。 今後の先生の益々のご活躍を期待いたします。

新設啓成高校・スタートの時

大学出て3年目、新卒バリバリの頑張り教師であった私がどうしてまだ校舎もない新設校へ転勤したんだろう。札幌東高校は生徒も先生も素晴らしく、皆“ケイジロ”“ケイジロ”と呼んで仲良くしてくれた。楽しく、不満など一つもない教師生活であった。
それなのに何故? ・・・・
あれは出会いであった。今になってそう思う。

ある日、武田俊介というチョビ髭校長がやってきた。3度も4度もやってきた。電話は一度もない。放課後を狙って直接やってくる。本当に何度もやって来た。
「新しい高校を創る。君に是非来て欲しい。20代の国語が欲しい。何かに夢中に慣れそうな男が欲しい。ぜひ新しい学校で頑張って貰いたい。」・・・
この繰り返しだけである。後はチョビ髭を撫でている。そして「また来る」と言って帰っていった。
周囲の先輩達が「ケイジロ、行け行け。人事というのは望まれたときに行くのが一番良いのだ」てな無責任なアドバイスをしきりにする。
私はついに根負けした。
「条件があります。」
「なんだ」
「一期生を1年から3年まで担任させてください。演劇部を創って私を顧問にしてください。校長は応援してください。 ・・・これを適えてくれるなら転勤を考えます。」
なんと傲慢な若造だ。なんと売り手市場の時代だったことか。
「分かった。担任はせひ頼む。10人の中に若い元気な人が入るのは理想だ。部活も野球部くらいはイメージ出来るが、1年生ばかりで他には何が出来るかわからない。演劇部、ぜひ頑張ってくれ。・・・ところで、校長に応援しろと言うのはなんだ。“金”か?」
「それもあります。でも何より、これから生徒達が創る舞台を校長は全部観て欲しいのです。」
「・・・分かった・・・」

それからご退職までの4年間、チョビ髭校長は必ず客席にいた。校内アトリエ公演の教室にも、クラーク会館にも、全道大会・室蘭センターにも必ずいた。開幕直前、舞台袖からちょっと覗くと必ずいた。 私は心から嬉しかった。啓成高校の教師になって良かったと思った。そして教師のなんたるかを、武田俊介チョビ髭校長に学んだ。・・・深謝・・・。

2010年9月19日  菅村敬次郎

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